ふと考えてみた。
生きているならば、1分1秒を楽しく、大切に使いたい。
と思う。
まぁ1分1秒まで細かくきざむ必要はないと思うが、これがつみ重ねれば1時間にも1日にもなる。という時間軸が存在するから、時には意識したほうがいいのかもしれない。
街中、身の回りを見回すと…たくさんの人がいて、それぞれにいろんな感情をいだいて生きている。もちろん自分も含めて。
ざっくりと見まわし、ひとつの例をサクッと言ってしまうと…
人はなぜ働くのだろうか。
ここから話を広げてみよう。
大多数がの意見が。
生きるためというのが大前提なのかな。
食うため。
着るため。
住むため。…項目を挙げだしたらキリがない。
この大前提の為とはいえ、1分1秒つまらなそうなひとが実に多い気がする。
気のせいだったらいいのだが、表にプンプンにおうのだ。
何故に自分が望まないのに1分1秒をつまらない瞬間にしてしまうのか。
つまらないという自己表現にエネルギーを使うならば、「楽しくなるにはどーするか?」にエネルギーを使いたい。
もし、楽しくならないのならば…きっと全身全霊で自分の価値観とは合ってないので方向転換すべきだと思われる。
この選択をするかしないかで、自己表現に大きな差が生まれる。
方向転換しなかった結果…つまらなそうな自分像ができあがり~となるのではなかろうか。
自分の価値観との対話。
これが1分1秒を大切に生きるための重要なポイントとみている。
自分の価値観とは?
人は瞬間瞬間であらゆるものの「価値」を自分の中で感じていると思う。
好きか嫌いか。
良いか悪いか。
甲乙つけがたいのか。
楽しい楽しくないのか。
寒いのか暑いのか。
おいしいのかおいしくないのか。
大雑把にいうならば、自分の価値観をベースに1分1秒自分はその場面に存在したいのか?したくないのか?
この答えが自分の価値観との対話の核となるはずである。
しかし、対話の結果を知ったとしても、それを押し殺してつき進まないといけない場面もたくさんあるのがこの世の中。
その場合。
どうやれば自分の価値観に近づくか?
近づけることが難しければ、どうやれば自分の価値観への少しでも糧にできるか?
ここまで考えて答えがでなければ…極論!
そこに存在すべきではないのであ~る。
すぐさま脱出することが自分の価値観の糧となるだろう。
自分の価値観を大切にしないと、他人の価値観の重みは理解しにくい。
自分の価値観の軸が整っていると、同じ価値観、近い価値観をもった人と出会った時の衝撃度は半端ない。数分に感じる時間が何時間も経過してたり、会っている最中から「次はいつ会えるかな~」といった感情にもなる。
1分1秒を使うならこんな風に使いたい。
実際に感じ、浸っていると。
この状況に満足する間もなく…
いつも、こんな風に1分1秒を使うならどうすればよいか?とまた思考の連鎖が続く。
脳というのは実にスパルタであ~る。

いつも脳にアクセスして、いろんな情報をインプットしてね~。つかれた時は休めの信号を送るからご心配なく~。

奥深いね~脳は。
お正月を経て、仕事始めの帰り道。
なんかモヤモヤしてたり、もっと休みて~ってなる人は…
2023年の始まり。
おもいっきり内観して、自分の価値観の確認をするのにいいタイミングであ~る。
そんなことを思う@熊本の夜。
ではまた~。